2012年1月~5月

5月30日(水)

新潟からプロテックエンジニアリングの野村利充社長がわざわざ高知に来てくれた。野村社長は英語がとても堪能なので、「日米落石対策研究会」(会長 吉田博先生)が主催した「アメリカ落石防護施設研究交流ツアー」に一緒に行った際に随分とお世話になった。平成12年には野村社長らが開発した落石防護擁壁ジオロックウォールについて高知県橋梁会で講演をしていただいた。高知に来られたのはそのとき以来というお話であった。

会社は平成10年に設立。最初は一人でされていたが現在では社員57人、年商19億円の立派な会社になっている。将来的には100億円にしたいが当面の目標は30億円というお話であった。

日本プロテクトの加賀山社長たちと「土佐市場寿し」に行き、野村社長から経営理念やこれまたでの苦労話をお聞きする。

平成10以降、国や地方自治体は公共事業費を毎年削減し、今ではピーク時の1/3~1/2になっている。どこも建設会社は経営を維持させるだけでも大変である。そのような中、落石防護工を製造販売する会社を急速に発展させている野村社長のお話は、加賀山社長にとってもとても参考になったことと思う。

左よりプロテックエンジニアリング関西支店チームリーダーの渡部理氏、野村利允社長、私、日本プロテクトの有木剛氏、加賀山肇社長
左よりプロテックエンジニアリング関西支店チームリーダーの渡部理氏、野村利允社長、私、日本プロテクトの有木剛氏、加賀山肇社長
カツオのタタキにモンゴルの岩塩をかけて塩タタキにして食べる。手前はシマカツオの刺身。
カツオのタタキにモンゴルの岩塩をかけて塩タタキにして食べる。手前はシマカツオの刺身。

5月29日(火)

久し振りに三共コンクリートの北添敏郎さんとお会いしたので、「土佐市場寿し」に行く。この店は、今年の4月8日に家内と二人で食事をしたのが最初である。高知の地酒を飲めて新鮮な魚を安く食べることができる雰囲気の良い店なので気に入った。今日は三度目になる。店主は安藤貞子さん。一人で二人の息子さんを医者に育てたと言われるだけあって、知的でしっかりされた女性である。今日が初対面であったがすっかり親しくさせていただき、刺身料理をサービスしていただいた。

北添敏郎さんと安藤貞子さん
北添敏郎さんと安藤貞子さん
新鮮な岩牡蠣の刺身、奥は地酒の利き酒
新鮮な岩牡蠣の刺身、奥は地酒の利き酒

渡月橋の上流側
渡月橋の上流側

5月26日(土)

京都定期観光バスを利用して,大覚寺,天龍寺,嵯峨野の竹林の小道,野宮神社,嵐山の渡月橋,世界遺産の仁和寺,石庭がある世界遺産の龍安寺を観光する。

京都の寺院は国の重要文化財であったり国宝であったり,ユネスコの世界遺産に登録されていたりするだけあり,見応えがある。芸術の知識やセンスが無くても見ただけで良さがわかる。広大な庭園の手入れの大変さは半端でないだろう。観光客からの収入で維持管理費を潤沢に使えるから手入れができるのだろう。天龍寺の周辺の竹林の手入れは見事であるが,手間はどれだけかかるのだろうか。

観光に行ったつもりであるが,渡月橋の橋の構造,コンクリートの劣化によるつつらの発生,主桁内部の鋼材の腐食が気になった。 →詳細

展示館に展示してある実物の起こし太鼓。
展示館に展示してある実物の起こし太鼓。

5月25日(金)

ME生から勧めがあった飛騨古川をワイドビューひだ1号に乗って訪問した。「飛騨古川まつり会館」「飛騨の匠文化館」を見学し,「白壁と土蔵のある街並み」「大きな錦鯉が泳ぐ瀬戸川」を見ながら古川の町を散策する。「西洋膳処まえだ」で食べた飛騨牛のステーキの美味しさは筆舌に尽くしがたい。ME生から聞いた通りであった。それ以上に素晴らしいと感じたのは,私が会った町の人たちである。とても親切で心の温かみを感じた。町は掃除が行き届き綺麗であった。町民が飛騨古川を観光の町として売り出そうとしている熱い思いを持っていることを感じた。 →詳細

5月24日(木)

岐阜大学で社会基盤ME養成講座「盛土と擁壁」の講義をする。第8期生となる今回のME生は24名。年齢は33歳から58歳で平均41歳。勤務先は官公庁7名,コンサルタント7名,建設会社10名。

講義は12時50分から16時までの2コマで,①擁壁の設計法(土圧,支持力,安定計算)。②自動車衝突荷重,落石衝突荷重,地震時荷重を作用させる場合の課題。③技術者としての心得。について説明させていただいた。

我が国は高齢化による社会保障費の増大で財政赤字がどんどん増えている。土木構造物など公共施設の老朽化も進んでいる。財政破綻状態の中で、来るべき時代を乗り切るには技術の独創的な知恵以外にない。荷重の特性を正しく把握し,力学的に合理的な設計を行うことで,安全性と経済性の両方を満足させることが可能になる。今日の私の講義がそのヒントになれば幸いと思っている。

夜は,名鉄岐阜駅の近くの居酒屋で,ME養成講座の受講生11名と村田芳信先生,倉内文孝先生,そして熊田さんと酒を飲みながら意見交換をさせていただいた。皆さんがMEの仲間のつながりを大切にしたいと話されていたのには驚いた。私が八嶋副学長をはじめ岐阜大学の皆さんとお付き合いさせていただいて4年目になるが,八嶋先生を中心とした人々の絆の強さに大きな魅力を感じ,ME生と同じように皆さんとの関係を大切にしたいと思っていたからである。

5月20日(日)

長宗我部元親初陣の像が立つ高知市長浜の若宮八幡宮鎮守の森公園で,第1回長宗我部まつりがあり,第一コンサルタンツも協賛していたので見物してきた。

「豊後大友宗麟鉄砲隊」による火縄銃の実演は迫力満点であった。約420年前の戸次川(へつぎがわ)の戦いの返礼として駆けつけてくれたということであった。戸次川の戦いとは,薩摩国の島津氏と豊後国の大友氏の戦い。秀吉の命を受けて大友宗麟の援軍として戦った長宗我部元親の嫡男・信親は22歳という若さで討死にした。元親の落胆振りは相当なもので、その性格は一変し、継嗣問題など色々な問題を引き起こしたとされている。

元親初陣の像の前で慰霊祭
元親初陣の像の前で慰霊祭
長宗我部国親・元親・信親と記念撮影
長宗我部国親・元親・信親と記念撮影

第1回宗我部まつり.pdf
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特月楼で江崎郁夫社長と雅章部長
特月楼で江崎郁夫社長と雅章部長

5月18日(金)

(株)フジみらいの江崎郁夫社長と長男で取締役経営企画部長をされている江崎雅章(37歳)が一緒に来社された。

江崎氏を最初に知ったのは40年以上前で,私が徳島の四国建設コンサルタントに入社してまもなくの頃であった。橋梁メーカーであるアルス製作所で橋梁の設計に携わっておられた。とても頭脳明晰という印象があった。

アルス製作所を退社され,昭和51年にフジ設計工務有限会社を設立。公共事業が落ち込んだ昭和58年頃には随分苦労をされていたという話は聞いていた。

昨年,社名を変更。社員65名,売上高3.8億円の立派な会社に成長されているようである。

私が徳島に出張していた関係で,来社していただいたのが昼前になっていたので,特月楼で食事をしながら貴重な話をいろいろ伺うことができた。

雅章さんという素晴らしい後継者に恵まれ,「フジみらい」は今後大きく発展するに違いないと思えた。

5月17日(木)

全測連四国地区協議会の定時総会と第24回「測量の日」記念行事が、ホテルクレメント徳島であり,高知県測協会からは橋口会長ら8名が参加した。私は、地建の大久保社長の車に便乗させてもらう。
吉野川の河口部で建設中であった、東環状大橋が供用されていた。供用後の名称は「阿波しらさぎ大橋」。橋長1291mのラーメン鈑桁橋。干潟部の575mは斜張橋の一種であるケーブルイーグレット橋。絶滅危惧種のシオマネキが生息する干潟に橋脚を建てるのを避けるため独特の工法を採用。イーグレットとは英語で白鷺のこと。

 

第24回「測量の日」記念講演会は、徳島銀行元頭取で現在相談役の桑原信義氏による「モラエスの旅ー徳島での日々ー」。眉山山頂にモラエス館があることは知っていたが、モラエスがどのような人物であるにか何も知らなかった。

・1854年生まれのポルトガル人。45歳の時に神戸大阪ポルトガル領事事務として赴任。徳島出身の芸者福本ヨネ(25歳)と同棲。ヨネは36歳で死亡。

・59歳の時に領事を辞任して徳島に移住。斉藤コハル(20歳)と同居。1929年に徳島の自宅で死去。享年75歳。

・徳島の歴史,地理,風俗,習慣などを執筆しポルトガル語で沢山出版。同時期の文豪にはハーン(小泉八雲),夏目漱石,森鴎外がいる。

 

17時30分からは、合同懇親会。アトラクションとして、阿波踊りで最も人気のある有名連「娯茶平」の踊りがあった。鐘や三味線のお囃子に合わせ,腰を低くして地を這うように進む「男踊り」,編み笠を被り整然と隊列を組み、艶やかに踊る「女踊り」,女性がハッピを着て団扇を巧みに使ってキレのある踊りを見せる「女法被踊り」が披露された。お囃子に合わせた足,腰,手の指に至る体全体のなめらかな動きは芸術である。

4月25日に開通した阿波しらさぎ大橋(徳島県のHPより)
4月25日に開通した阿波しらさぎ大橋(徳島県のHPより)
娯茶平連の男踊り
娯茶平連の男踊り

5月4日(金)みどりの日

カツオ漁本場の黒潮町佐賀では,今年も伊与木川に「カツオのぼり」と「鯉のぼり」の川渡しが行われていた。地元の坂折(さこり)地区がカツオの町をアピールしようと10年ほど前に始めたもので,今年はカツオのぼり,鯉のぼり共に51匹ずつで過去最大規模。 真っ青な空をカツオと鯉が泳ぐ姿は何とも爽快である。

黒潮町入野の浜では,第24回目となる「Tシャツアート展」が開催されていた。全国から応募があった1,366点のデザイン画をオーガニックコットンのTシャツにプリントし,砂浜に張られた物干しロープに洗濯バサミで吊したもの。「Tシャツのぼり」といったところである。応募費用は1点当り4,000円必要であるが,家族を連れて来て,自分がデザインしたTシャツの出来映えを自慢すれば結構楽しく,家族の絆が強まるに違いないと思った。

波打ち際では全国から沢山のサーファーが訪れ,波乗りを楽しんでいた。

黒潮町佐賀の「カツオのぼり」
黒潮町佐賀の「カツオのぼり」
入野の浜の「Tシャツアート展」
入野の浜の「Tシャツアート展」

5月2日(水)

3月末で高知県を定年退職した門田卓君,小谷広彦君,藤本建設を退職した伊藤文夫君の慰労会を九反田のお好み焼き店「ついんず」で行った。段取ったのは,いつも幹事役をしてくれている刈谷耕一君。

高知工業高校土木科を卒業し42年の歳月が過ぎた。高校時代には3人とも品行方正とはいえない問題児であったが,社会人になってからは人間として,土木技術者として多くの人々から尊敬されるようになっていった。3人とも私にとって自慢の同級生である。42年間,本当にお疲れ様でした。


4月25日(木)

公益社団法人地盤工学会四国支部の平成24年度支部総会が高松テレサであった。昨年度から応用地質の(株)の田中敏彦氏と共に支部監事を引き受けており,総会で監査報告をする。

懇親会の後,高知高専の岡林宏二郎先生と(株)地研の嘉茂美佐子さんと大工町の「味の樹」に行く。ここは,大阪ヒルトンホテル や高松の老舗料亭二蝶で修業を積んだ板前「天野幸悦」氏の店。

「オコゼの薄作りとオコゼの唐揚げ」「メバルの煮付け」など瀬戸内海の小魚料理を食べながら高知県人同士で二次会。オコゼもメバルもグロテスクな姿をしているが,味は抜群。

岡林宏二郎先生と嘉茂美佐さん。
岡林宏二郎先生と嘉茂美佐さん。
オコゼの薄造り。食べるときも頭がピクピク動いていた。
オコゼの薄造り。食べるときも頭がピクピク動いていた。

武石利彦議長と一緒に記念撮影
武石利彦議長と一緒に記念撮影

4月18日(水)

高知県測量設計業協会の顧問をしてもらっている武石利彦県会議員が,第91代目の県会議長に就任したので,協会の役員5名で県議会会館の中にある議長室を表敬訪問した。

秘書室があり,その奥に広くて格調が高い作りの議長室があった。壁には初代から第53代までの議長の名前が書かれた木札が掛けられていた。衆議院議長をも務めた初代片岡健吉,衆議院議員で建設大臣をも務めた第41・42代仮谷忠男らの名前があった。

第54代目から第90代目の議長は額縁に入った写真が飾られていた。53代目までは別室に肖像画が飾られているようである。

初代議長が誕生したのは明治12年(1879年)であるので,今年は133年目になる。

4月17日(火)

高知会館で高知県橋梁会平成24年度第1回目の研修会と定例総会および懇親会を行う。研修会参加者は76名,懇親会は41名と盛況であった。

今日は5編の発表があった。世界最大の免震支承,アルミ製伸縮装置,地盤の液状化対策,地震・津波対策,落石対策に関するもので,いずれもタイムリーな最新の技術の紹介であった。

高知県橋梁会が発足したのは昭和52年4月。今年35周年目を迎えた。

国の公共事業予算が毎年削減され建設業界が衰退する中で,建設関連の学会や協会は会員の退会に歯止めがきかなくなり,講習会にも動員をかけなければ人が集まらないという話をよく聞く。しかし, 高知県橋梁会にはたくさんの方が参加していただき,会員についても今年6社が新たに入会していただき,現在35社となった。
35年間に,述べ約450人の方に講演をしていただいている。橋梁会の誇りであり,大きな財産である。見えない財産が橋梁会の魅力になっている。

 

二次会はいつもの居酒屋「赤たぬき」。この店の魅力は安いこと。
二次会はいつもの居酒屋「赤たぬき」。この店の魅力は安いこと。

4月15日(日)

家内のお母さんと三人で五台山の山頂の展望台と牧野植物園に行く。天候も良く絶好の行楽日和であった。

牧野植物園は手入れが行き届いているのでいつ来ても綺麗な花を見ることができる。義母も随分と感動していた。

牧野植物園には,今年になってこれで3度目になるが来る度に花の種類が変わっている。いつ来ても満足させられる。

4月14日(土)

伊藤哲也君とみきさんの結婚披露宴が高知新阪急ホテルであった。

哲也君は高校時代の同級生の伊藤佳信君のご子息。平成21年に長崎大学工学部社会開発工学科を卒業して第一コンサルタンツに入社。今年の春には優秀社員表彰を受け,調査課のホープとして期待されている。

みきさんはとても笑顔が素敵な明るい2歳年上の姉さん女房。最初に哲也君を見たときに草食系と感じたそうである。

最近,女性の年上婚が増加している。男子の草食系化が原因のようである。「仲の良い夫婦を観察していると、女性のタイプに一貫性はないのだが、男性は総じて草食系である事が分かる」とある小説家が新聞に書いていた。

この二人も仲の良い明るい家庭を築くことだろう。若い二人に幸多かれ!!

4月12日(木)

平成23年度は会社でトラブルが次々に発生した年であった。幸い大事に至ることなく,社内の問題点,改善すべき点が見えてきた。私が感じていることや現在の私の思いを社員に話し,それに対する意見を聞きたいと考えていた。

久し振りに四万十市で泊まることになったので,幡多支店の仲間たちと居酒屋「味劇場ちか」で,糖尿病であることも忘れて酒を飲み,夢を語り合った。

本当に素晴らしい仲間たちである。四国一になることが正夢になりつつあることを確信した。

竹林寺の桜
竹林寺の桜

4月8日(日)

天気良好。運動がてら遍路道を通って五台山に登ることにした。11時に自宅を家内と出発。高須大島から松村神社への階段を上る。神社の手前を右手に折れる小道があり,道沿いの木に遍路道と書かれた標識がつり下げられていた。遍路道を登って行くと牧野植物園北園の芝生広場に出た。

遍路道は,牧野富太郎記念館の本館と展示館を結ぶ回廊を横断し,南園の50周年記念庭園の中を通っている。入園料を払っていないので園内を散策することはできないが,遍路道から見物することはできる。3月26日に訪れたときとは庭園に咲いている花の種類が様変わりしていた。手入れが行き届き,とても美しい。

竹林寺で参拝し,五台山展望レストランでパンとコーヒーの昼食をとり,吸江側に降りて14時30分に自宅に帰り着く。 所要時間は3時間30分。最高の散策コースである。

五台山遍路道.pdf
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二の丸に飾られた生け花
二の丸に飾られた生け花

高知城・高知公園では4月6日から「高知城花回廊」が始まっており,今日が最終日。昨年は東日本大震災のために中止になっている。夕方,家内と電車に乗って出かける。

「和で綴る花と灯り」をテーマに,ライトアップされた各流派の生け花や天守閣がとても綺麗。天守閣の壁面や石垣をスクリーンにして,そこにデジタル映像を投射して幻想的な世界を作り出す「光の切り絵」は素晴らしかった。

本丸の正殿の舞台では,ライトアップされて日本庭園をバックに羽織袴姿の長野遊山と濱田遊雲のお二人による尺八の演奏があり,美しい音色に観客が聞き入った。 長野遊山とは,高知土木事務所の土木次長をされている長野哲司氏。

 

高知城花回廊2012.pdf
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歓迎の挨拶をする私
歓迎の挨拶をする私

4月2日(月) 

いよいよ平成24年度がスタートを切った。4月1日付けの採用者5名と昨年度の中途採用者を含む7名の入社を全社員でお祝いした。

歓迎の挨拶で,下記のようなお話しをさせていただいた。

 私達は,四国一信用がおける会社,四国一技術が高い会社,四国一頼りになる会社と言われるようになることを目標としています。そのために,皆さん方に入社していただきました。コンサルタントは人が会社の財産です。お互いが切磋琢磨しながら技術と人間性を磨き,会社の宝と言われるような人材になって下さい。

第一コンサルタンツには,

 仕事がある

 笑顔がある

 未来がある

と言われるような会社にしましょう。

入社式の様子はこちら

サンピアセリーズに全社員が集合して入社式
サンピアセリーズに全社員が集合して入社式
義父の遺骨を納めた墓の前で
義父の遺骨を納めた墓の前で

3月31日(土)

義父・友岡稔が90歳で旅立って既に110日が過ぎた。東久留米市柳窪の小平聖地公園に兵頭家,右城家,そして掘田家の3家族が集合し,完成した友岡家・兵頭家共同の納骨堂に義父の遺骨を納めた。

納骨の前に,家内の妹の扶美枝さんより,「友岡稔 正六位に叙する 平成二十三年十二月十一日 内閣総理大臣 野田佳彦宣」と書かれた位記が送られてきたという報告があった。 義父は小学校の校長を長年しており,その功績が認められて生前に叙勲をいただいていた。

納骨式を終えた後,小平市にある「いろりの里四季亭」で食事をする。ここは,義父の生前に家族でときどき食事をしていた思い出のある場所である。 ⇒写真

岩塚忠男教育長と今西芳彦町長
岩塚忠男教育長と今西芳彦町長

3月29日(木)

私の出身地である本山町を訪問し,今年,小学校に入学する児童のために三角鉛筆30組を贈呈させていただいた。今年小学校に入学する児童数は本山町全体でわずか22人。三角鉛筆は,絵本の店「コッコ・サン」店長の森本智香さんと絵本作家きしらまゆこさんとが一緒になって作ったもので,商品名は「筆育くもんちゃんのちゃんともてるさかくえんぴつ」。正しく持つことができるように工夫されたすばらしい鉛筆である。

昨日からのどの具合が悪くなり,今朝起きると声が出なくなっていた。かかりつけの耳鼻咽喉科で診察して貰ったが声はかすれてほとんどでない状態であった。このため,鉛筆を今西町長にお渡ししたらすぐ退散するつもりであったが,気がつけば1時間以上経っていた。

町長室に来られていた岩塚教育長とは初対面であったが,3人とも児童教育に対する熱い思いをもっており,時が経つのも忘れて話が弾んだ。

高知県や本山町の未来は子供達にかかっている。優秀な人材が地元に残って働くことができるようにすることが私に与えられた課題である。

三角鉛筆の記事が高知新聞(2012.4.3)に掲載
三角鉛筆.pdf
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あいさい農園の安見和夫氏
あいさい農園の安見和夫氏

3月25日(日)

砥部町の坂本真民記念館に行く途中,松山自動車道川内インターで降りて,東温市にある「あいさい農園」を表敬訪問する。農園では旧来の友人の安見さんが,(株)愛橋を退職し一人で野菜を作っている。

畑の中に建てられた作業小屋の中には,事務机やパソコンも置かれている。コーヒーをご馳走になりながら苦労話を伺った。

化学農薬や化学肥料は一切使わない有機栽培なので,商品になるような野菜を収穫することは難しいようである。昨年は1年間の収入が60万円で,種や苗,肥料代が60万円かかったと笑っていた。

帰り際,菜の花,コウサイタイ,玉ねぎ,大根など新鮮な野菜をたくさんいただいた。夕食の時に家内がおひたしやサラダにしてくれたので,酒の肴にして食べた。安見さんの愛情と汗がいっぱい詰まっていてとても美味しかった。

1年ほど前から愛読するようになった雑誌「致知」2012年3月号に,砥部町長の中村剛志氏が書かれた記事で「坂村真民記念館」が3月11日にオープンすることを知り,見学したいと考えていた。

私が坂村真民を知ったのは25年ほど前である。高知県技術士会の会員であった故・瀬戸正美氏からいただいた年賀状に,「念ずれば花ひらく」の詩が書かれていたのである。真民の片方の眼が見えなくなり絶望のどん底にあった46歳の時に生まれたと言われている。その後,瀬戸氏から「念ずれば花ひらく」の八字十音の真言を刻んだ石碑を作ったという話を伺い,坂村真民の名前が私の脳裏に深く刻み込まれることになった。

坂村真民氏の詩には「心の財」となる真言がたくさんあり,読む者に活力を与えてくれる。

記念館の正面にも,「念ずれば花ひらく」の詩が刻まれた石碑が置かれていた。「坂村真民記念館公式ガイドブック」が1000円で販売されており,これを見ればどのような資料や作品が展示されているかを知ることができる。

 

3月11日にオープンした砥部町の坂村真民記念館
3月11日にオープンした砥部町の坂村真民記念館

3月24日(土)

日本技術士会地域本部長会議に出席された会員の内の15名が参加し,桂浜,坂本龍馬記念館,五台山竹林寺,牧野植物園を見学した。

坂本龍馬が土佐藩を脱藩したのは150年前の今日,文久2年(1862年)3月24日である。また,今年は牧野富太郎生誕150年。見学日がこのような記念日に重なるとは奇遇である。

桂浜では,龍馬生誕90年の大正15(1925)に,県内の青年たちが寄付金を集めて建立した坂本龍馬像の前で記念撮影し,月の名所の桂浜と竜王岬を散策。龍馬生誕150周年を記念して建設された坂本龍馬記念館では,学芸員の方に館内の見所のみを丁寧に説明していただいた。

五台山に移動し四国霊場第三十一番札所竹林寺で参拝。その後,牧野富太郎博士の業績を顕彰するために作られた牧野植物園を,黒岩宣仁氏と前田綾子さんにガイドをしていただきながら見学する。お二人とも環境部門の技術士である。牧野植物園は植物の保存,研究,教育普及,憩いの場の全てを備えた日本には珍しい総合植物園である。

坂本龍馬記念館と牧野植物園に共通していることは,施設や展示品が年々充実していることと,勤務している学芸員が生き生きと働いていることである。仕事が本当に好きでなければ思いつかないような工夫が随所に見られた。

帰りの飛行機の都合で,13時50分には牧野植物園を出なければならないという非常にタイトなスケジュールであったが,学芸員の皆様のお陰で,とても内容の充実した技術士会に相応しい見学会となった。

 

写真左より清水副会長,末利副会長,内村会長,大谷北陸本部長,私
写真左より清水副会長,末利副会長,内村会長,大谷北陸本部長,私

3月23日(金)

四国では初めての日本技術士会地域本部長会議が三翠園で開催され,北海道,東北,北陸,中部,近畿,中国,九州,四国の各本部長,統括本部からは内村会長,清水・小林・末利副会長,高木専務理事,西村常務理事,横山常務理事ら20名の出席があった。

四国本部からは加賀本部長,増田・武山・右城副本部長,栗本総務委員長,明坂防災委員長が出席した。 

懇親会の後,内村会長,清水副会長,末利副会長,大谷北陸本部長を「ひろめ市場」と「はりまや橋」へご案内させていただいた。

内村会長は,47都道府県で足を踏み入れていなかったのは高知県だけであったそうで,これで全国を制覇したと喜んでおられた。

詳細はこちら

H23年度地域本部長会議.pdf
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3月22日(木)

天候が良くて寒くなく,体調が良いときだけ早朝ジョギングをしている。コースはいつも決まっている。東部運動場の周辺の農道である。2周すると約6.5kmあり50分弱かかる。1周すると約3.5kmで30分弱。今日は不燃物を出す日になっていたので1周だけで終える。

途中,農道の脇で白モクレンが満開になっていた。今の季節,高知市内では白モクレンをよく見る。堀詰の南北の通りにも沢山咲いている。昔は白モクレンを見かけなかったので年輩のタクシーの運転手に尋ねたところ,昔からあったと言われた。若い頃の私には,咲いていても見えなかっただけである。還暦を過ぎたこの歳になってようやく自然の美しさに目がゆくようになったようである。

昨日,高知城にある桜の標本木が開花し,日本で一番早く開花宣言が出された。桜が満開となる年度末は,仕事に追われている。花見をしたいと思った頃には葉桜になっている。

午後は高知県測量業協会の役員会。その後は「帯や勘助」で,協会顧問の武石利彦県会議員の議長就任祝賀会

 

3月19日(月)

家内の妹の扶美枝さんからメールが送られてきた。昨年の12月11日に他界した義父・友岡稔の墓が,東久留米市柳窪4丁目の「小平聖地公園セントソフィア」の一角に完成したという知らせであった。墓石の写真も添付されていた。
墓石には「心の財」と書かれていた。兵頭信二さんと扶美枝さんが,考えに考えた末に決めたということであった。

日蓮上人が弟子・四条金吾に宛てた手紙の中に書かれている,「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり ,身の財より心の財第一なり」から取ったようである。
「蔵の財」とは財産,「身の財」とは健康,「心の財」とは信仰、希望、愛,友情など心の支えになるものだと思う。教育者であった義父の信条をよく表した言葉でり,墓石に刻む言葉として最適である。

高野光二郎氏に河野太郎先生との記念写真を撮っていただく。
高野光二郎氏に河野太郎先生との記念写真を撮っていただく。

3月17日(土)

3.11の東日本大震災から1年になる。この地震では津波もさることながら原発の恐ろしさを思い知らされた。日本列島は千年に一度の地震活動期に入ったと言われている。東海・東南海・南海・日向灘の4つのプレートが連動し,M9を超える巨大地震が起こるという予測もある。日本には原子力発電所が17カ所にあり,総数54基の原子炉がある。今後における地震・原発対策を誤ると,日本沈没にもなりかねない。

 三翠園で13時より河野太郎衆議院議員による「原発と日本はこうなる」と題した講演があったので,家内と一緒に参加した。

会場入り口で販売されていた河野太郎先生著書の「原発と日本はこうなる」(講談社,1200円)を購入し,本にサインをしていただいた。 

3月16日(金)

  東京ファブリック工業の小西洋佑社長が久しぶりに高知へこられたので,徳月楼に案内させていただいた。小西社長には,高松営業所の支配人をされていた30年くらい前から親しくお付き合いをさせていただいている。

 徳月楼は,松岡寅八が明治3年に陽暉楼として創業した料亭である。明治11年に西南戦争から凱旋した将軍谷千城の帰国祝いをかねて観月会を開催。その時、谷千城が中国の蘇鱗の詩「近水楼台先得月、向陽花木易為春」から「陽暉楼」を「得月楼」と命名したとされている。

 昼食の前に,従業員の方に店内を案内していただいた。二階の大広間の天井には,長さ10m,幅75cm,厚さ1.8cmの魚梁瀬杉の一枚板が使用されている。数億円の価値があり,有形文化財に指定されているということであった。

 徳月楼の名物の一つに,樹齢200年から300年の「盆梅」があるが,既に見頃を終えて部屋からは撤去されていた。

 

3月10日(土)

高知では,3月3日から11日までの9日間,恒例の「土佐のおきゃく2012」と題するイベントが行われていた。「お客」とは土佐弁で「宴会」のこと。昨年は,東日本大震災のために中止になっている。

10日と11日には「宮城県を元気にする高知応援隊」(隊長 宮地貴嗣)が中央公園に「東北支援ブース」を出店し,牛タン,餃子,ビールなどを販売することになっており,第一コンサルタンツから鍛冶君が参加していた。

我が家は,販売に協力させてもらうことにする。

3月9日(金)

3月7日(水)午前1時,入院先の早明浦病院で母・和三子が永眠した。本山町の「葬祭会館ききょう」で,8日19時よりお通夜,9日12時より告別式を執り行った。お通夜,告別式には年度末の多忙な時期に関わらず,遠路,雨の中をたくさんの方にお越しいただき,ご丁寧なお悔やみの言葉やたくさんのお香典をいただいた。弔電,生花もたくさんいただいた。皆様に心より感謝申し上げます。

生前の母は,とても気さくで陽気な性格であったので,ワミチャン,ワミチャンと慕われ,多くの方に親しくお付き合いしていただいていた。また,小さい体であったが,寝るのは夜中の1時過ぎで朝は夜が明ける前から起き,いつ寝ているのか分からないほどよく働いていた。

そのような無理が祟ったのか,16年前にくも膜下出血で突然倒れ意識不明になった。一時期,お粥など消化の良いものを食べられるまで快復していたが,介護の甲斐無く満83歳と6ヶ月の生涯を閉じた。
闘病期間中は,近森病院,嶺北中央病院,特別養護老人ホーム嶺北荘,そして早明浦病院の皆様に本当にお世話になった。皆様の献身的な介護に対して,心より感謝申し上げます。

3月2日(金)

高知工科大学社会システム工学科の藤澤伸光教授と草柳俊二教授のお二人の最終講義となる「研究成果報告会」が高知新阪急ホテルで15時から17時まであった。

藤澤先生は,25年間日本鋼管で橋梁の研究に携わった後、1997年の高知工科大学の開学と同時に教授になられた。「起承転転 振動、風、橋…さまよって40年」と題して,40年間の研究内容が分かりやすく紹介された。高知工科大学では、学生と一緒に研究することでいろいろなことを教えられた。学生は卒論を通じて成長した。人間力を伸ばすのに卒論はとても良い。今後、卒論を必須にすべきであると提言された。

草柳先生は、1967年に大成建設に入社され世界各地で建設事業に従事した後,2001年に高知工科大学の教授に就任された。「大災害対応のためのマネージメントシステム 建設マネージメントからのアプローチ」と題し、2004年に起きたマグニチュード9.2のスマトラ沖地震によるスリランカの津波被害調査、昨年起きた東日本大震災の被害写真をパワーポイントで紹介しながら、わが国の災害対応の問題点をいろいろとシテキスルトと共に、南海地震に備えて何をしておくべきかを話された。

17時30分からは4階のフローラに会場を移し,退職記念パーティーが開催された。

藤澤先生・草柳先生退職記念.pdf
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2月26日(日)

今日は,川内優輝の走りが話題になっている東京マラソンが9時にスタートする。出場者数では東京マラソンに遠く及ばないが,第66回という伝統を誇る高知マラソンも9時に高知県庁前をスタートする。

高知マラソンは日本陸上競技連盟公認のマラソン。日本陸連に登録している男子でなければ出場することができない。今年の出場者は119名。来年度からは「高知龍馬マラソン」と銘打った市民マラソンに変わることに決まっている。

甥の右城祐介が出場するので,高須のナンコクスーパー前で声援を送る。9時21分,2台の白バイに先導されて招待選手7名の先頭集団が走ってきた。ゼッケン73番を付けた祐介が現れたのは,トップ集団から1分遅れの3番目の集団の先頭を走ってきた。 このまま行けば好タイムが期待できるのだが・・・・

到着ロビーに出てくる和恵と祐希
到着ロビーに出てくる和恵と祐希

2月25日(土)

羽田16時25分発のANA565便で祐希がやってきた。

和恵が大学時代にお世話になった研究室の恩師の退官記念パーティーが3月2日に高知であるので,それに出席するためである。

祐希と会うのは,1月26日以来の30日振り。私を忘れたのか少し緊張した面持ち。わが家に入ると,以前の笑顔が戻って来た。祐希が産まれたのは昨年の3月18日。誕生して10日目から約4ヶ月,正月に1ヶ月をわが家で過ごしている。自宅に帰って来たと思ったのだろう。

 

高雄清澄湖。後方の建物は高雄圓山大飯店。
高雄清澄湖。後方の建物は高雄圓山大飯店。

2月5日(日)~8日(水)

土佐電トラベルなど数社の旅行会社が共同で企画した「チャーター便で行く!台湾 4日間 三都市ハイライト」というツァーを利用して,高雄,花蓮,台北の三都市を旅行してきた。
台湾は,1999年に起きた台湾地震の被害調査で行っただけであったので,一度は観光したいと考えていた。日頃懇意にしていただいている小笠原夫妻に誘われたことがツァーへの参加を決めることになった。

観光先はどこも良かったが,断崖絶壁が続く花蓮のタロコ渓谷,神業としか思えないような彫刻や書画を展示した台北の故宮博物館は特に見応えがあった。宿泊したホテル,レストランの食事も満足できるものであり,思い出に残る素晴らしい旅であった。

12年振りの台湾であったが,この間の発展には驚かされた。現在も至る所で道路や鉄道,ビルの建設工事が行われていた。インフラ整備が日本の水準に追いつくのは時間の問題と感じた。

詳細はこちら

1368段の階段を登って奥社まで行く
1368段の階段を登って奥社まで行く

1月29日(日)

2006年より恒例にしている金比羅さんへの初詣。今年の1月はいろいろなことがあったが,なんとしても金比羅参りだけは欠かしたくないと思っていた。天気も良く,絶好の参拝日和であった。
金比羅到着は10時20分頃。朝食のパンは食べてきたが,参道の登り口にある「将八」に入り,家内は名物の「しょう油ぶっかけうどん」,私は「天ぷらうどん」を食べる。

今年に入ってから風邪をひいて全く運動をしていなかったので筋肉が衰えている。石段を上る体が重い。294段目で早くも疲れる。

参道の登り口から30分で本宮に到着。ここまでの石段は785段。少林寺拳法の練習をしている。

ここで休むことなく奥社「巌魂神社」まで一気に登る。本宮からの石段は583段。登り口からは1368段。到着したのは11時47分。所要時間は約1時間。

本宮で1000円の絵馬を買って,「社員家族全員健康 トラブル回避 四国一達成 第一コンサルタンツ社長 右城猛」と書いて奉納する。絵馬に書いた内容は,白峰神社,奥社の厳魂神社,本宮,旭社で祈願した言葉のまま。

下山の途中,500段目にある銀座資生堂パーラーが経営するレストラン「神椿」によって,コーヒーとパンを食べる。 

徳月楼2階大広間の盆梅
徳月楼2階大広間の盆梅

1月28日(土)

日本興業の松山さんと亀山さんが高知に来られるというので,昨日予約していた徳月楼に行く。

徳月楼は明治3年創業の老舗料亭。播磨屋橋の近くにある。創業当時の屋号は「陽暉楼」。玉水町にあった遊郭である。高知県出身の直木賞作家・宮尾登美子が書いた小説『陽暉楼」(昭和51年)が,昭和58年に映画化され,よく知られるようになった。

徳月楼の名物は,樹齢200年から300年といわれる300三百鉢余りの「盆梅」。盆梅は各部屋でも見られるが,2階の大広間の盆梅が有名。大広間は,日本三大美林のひとつヤナセ杉の三十六尺の一枚板を使った天井を持ち、今も明治の風雅な佇まいを残している。

大広間では,13時から結婚披露宴があるということで準備が整っていたが,12時までならと言う条件で盆梅を鑑賞させてもらう。  見頃はまだ先のようで,小さなつぼみを付けた状態であった。

その後,別の個室に移動し,床の間の盆梅を鑑賞しながら梅見弁当を食べる。徳月楼はときとぎ利用させてもらっているが,盆梅を鑑賞しながら食事をしたのは今回が初めて。 →詳細はこちら

 

黒ひげが入った樽にナイフを突き刺すアシさん
黒ひげが入った樽にナイフを突き刺すアシさん

1月22日(月)愛大留学生と新年会

伊予市中山町の「花の森ホテル」で,愛媛大学の大学院に来ている留学生たちと新年会。昨年,愛大副学長の矢田部龍一先生から,「留学生を連れて須崎市の安和海岸の落石防護施設群を見に行くので案内をして欲しい,夜は中土佐町の黒潮本陣で新年会を一緒にしませんか」と誘われたのがきっかけ。今回は2回目。当初は,四万十町の松葉川温泉を予約していたのであるが,矢田部先生のスケジュールの関係で急遽変更。

今年は,ネパールから研究員で来られているランジャン先生,第一コンサルタンツの奥村昌史君が新しく加わった。落石防護ネットの数値解析をしてもらっているシャンカルさんが不参加であったのは残念。

今年も日本プロテクトの加賀山肇社長と有木剛氏が「黒ひげ脱出ゲーム」と「ガラガラ抽選器」を組み合わせた面白いゲームを考えてくれていて,楽しい新年会となった。

詳細はこちら

後列左よりラム,ディパーク,有木,キラン,ユバ,加賀山,奥村

前列左よりランジャン,マニタ,アシ,中島,矢田部,右城,ネトラ

1月19日(木)

正月明けより風邪が流行だした。私も,5日頃から声が出にくくなり,行きつけの耳鼻咽喉科で治療をしてもらったが,未だに完全には直っていない。

生後10ヶ月で免疫力があるはずの祐希も遂に風邪を引いてしまった。母親に連れられて頻繁に友人たちと食事会に出かけていたので,それが感染の原因だろうか。

この日の夜も39度の高熱を出した。夜の11時まで診療している高須の福森循環器小児科に連れて行く。待合室は風邪を引いた子供で溢れていた。

元気なときの腕白振りがすっかり陰を潜めてしまった。明日東京に帰る予定であったが,一週間延期。

 

母の妹の忠子,克子,結子
母の妹の忠子,克子,結子

1月9日(月)成人の日

昨日,叔母の石川昌子が肺炎のため入院していた病院で満87歳の生涯を閉じた。遺体は,生前同居していた菜園場の尾崎克子叔母のところに帰っているというので,家内と一緒に会いに行く。

昌子叔母は7人姉弟の長女。母の姉になる。私は高校時代,神田に住んでいた母方の祖父の家に下宿していたが,そこには昌子叔母の家族も同居しており,叔母には随分と世話になった。

尾崎家には,大阪に住んでいる中西結子叔母,玉水町の長崎忠子叔母も既に来ていた。昌子叔母の遺体の横で思い出に話が弾む。

1月3日(火)

和恵たちと香北町のアンパンマンミュージアムに行く。

香北町は高知市から北東に30km,物部川の中流に位置している。この町の出身の漫画家やなせたかしが費用を出して建設し,町に寄付。1996年にオープンした。

駐車場はほぼ満車状態。県外ナンバーが多い。北は青森,南は沖縄,全国から来られるようである。入館者数は毎年20万人を超えている。高知県では,桂浜にある坂本龍馬記念館がNHK大河ドラマ龍馬伝の影響で40万人を突破したが,それ以前は14万人。岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館が年間15万~18万人であるので,アンパンマンの力が如何にすごいかが分かる。

祐希はまだ小さいので野外の無料の遊園地で遊ばし,館内には入らず。もう少し大きくなったら再び連れてこよう。

母の妹の忠子叔母と夫の稔
母の妹の忠子叔母と夫の稔

2012年1月2日(月)

正月2日は,玉水町にある長崎家に叔母の妹や知人などが集まって食事を楽しむのが恒例となっている。わが家からは和恵と祐希,家内と私の4名でお邪魔した。食事の前に全員が体重を量ってノートに記録することになっている。

国交省を退職した叔父の長崎稔は,明日が81歳の誕生日。この食事会は30年以上続いている。以前は,夜まで酒盛りが続いていたのであるが,酒豪であった叔父は酒が飲めなくなり,昔の賑やかさはなくなった。